多声のアフガニスタン

Afghanistan in polyphony

2016年4月12日 掲載記事より

前田 耕作   

 

 世界ではいくたびも戦争が起こった。燃えては消え、消えては燃え、今なお戦火がおさまっていないのが、わが愛するアフガニスタンである。多くの人々の命が失われれば、失われるほど憎しみの炎は大きくなり、砲火は激しさを増す。アフガニスタンとて例外ではない。あれほど誇り高く、あれほど毅然として近代の植民地主義に抗して自立を保持しつづけてきた国が、いま、互いに正義を口にしつつ、人間の尊厳に背をむける争乱に喘いでいる。心荒ぶる戦争を早く終結させ、アフガニスタンに平和の礎を築づくにはどうすればよいのか、私たちはよろめきながらも、考えつづけてきた。

 解決の王道などあろうはずはない。人類が経験と知恵を駆使して積み上げてきたいかなる法も制度も理想も、恒久の平和を実らせることができなかったではないか。そうだとすれば、いちじるしい経済発展が平和をもたらすのであろうか。歴史を振り返れば、答えはおのずと否定的である。経済発展は格差を生みだし、社会総体の成熟にはつながらず、紛争やテロの火種ともなることを私たちは学んでいる。私たちひとりひとりが、和解と信頼という失われた絆をたぐり寄せることで、不戦へと通ずるかもしれない小径を探り当てるほかない。

 アフガニスタンの問題は、その意味で私たちの人間としての誠実さと思いやりの深さを映し出す鏡のような役割を果たしている。過去・現在・未来のどれを切り離してもアフガニスタンの姿は見えてこない。歴史と文化に耳をそばだてることがなければ、あの明澄な風景の中で複数の民族が互いに織りなし、育み、補い合う多声(ポリフォニーpolyphony)は聞こえてこないだろう。アフガニスタンはそれほどまでに深い襞に刻まれて捉え難く、それゆえに魅惑的でもあるのである。

 アアフガニスタンはイスラームの信仰深い国だが、かつてはペルシアやヘレニズムの文化が根づき、仏教も大輪の花を咲かせた国であった。異なったどのような文化も排除することなく、互いに吸収し合って独自の文化をきづき上げてきた国がアフガニスタンであったともいえる。この不思議な文化の融合力はどこか日本に似ている。

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

 2003年夏、戦火が埋もれ火のように静まったとき、私はアフガニスタンを25年ぶりに訪れた。カブ-ル川を渡り、すべてが瓦礫と化したカブールの街並みを通り抜け、今にも崩壊しそうなダルラマン宮殿の前を右折、カブール博物館に至りついた。博物館は入口と前壁を残すのみで、ほとんど廃墟にちかかった。入口の上部、以前には「ミュゼ・ドゥ・カブール」の文字が記されていた場所に、一つの文章が書かれた白地の幕があるのみであった。戦後すぐに掲げられたこの一文「文化がまだ生き残っているとすれば、国もまた生き残れよう」、アフガニスタンの復興の精神の旗印となったこの文言が世界の心を深く捉えることとなった。

 アフガニスタンは「文明の十字路」という言葉がもっともふさわしい国である。あらゆる宗教がこの地で花開いたが、しっかりと大地に根を張り、世界の眼をここにひきつけたのはゾロアスター教であり、仏教であり、イスラーム教であった。

 ガンダラーラの最も盛んな時代が過ぎ去ろうとしたとき、人々は新しい活動の天地をさらに西方に求めた。アフガニスタンの多様な仏教遺跡は布教の情熱の痕跡である。5世紀には中国の僧法顕が老齢をかえりみず東方からアフガニスタンのハッダ(現在のジェララバード)を訪れ、聖跡にぬかずいた。7世紀には玄奘が正しい仏法を求めるほとばしる熱気をみなぎらせて西方からアフガニスタンを駆け巡った。アフガニスタンの考古遺跡の多くは、往時の薫り高い仏教の面影をいかんなく漂わせている。8世紀には慧超が南方のガズニーからバーミヤンを経てバルフへと赴き、アラブとイスラームの気配を伝えた。

 仏教からイスラームへの移行は唐突で性急ではあったが、アフガニスタンでは仏教から多くのものを受け取り、後世に伝えた。この時代のイスラームはしなやかであった。仏教の都の一つであったガズニーに生まれたイスラーム王朝の宮廷には仏教についても偏見なく語ることのできた学者や文学者がいて、不朽の著述を残し、世界文化の歴史にアフガニスタンの名を深く刻み込んだ。天文学者アル・ビルーニー(Al Beruni)と詩人フィルドウスィー(Firdousi)である。彼らはいずれも異国の人であったが、イスラーム・アフガニスタンにとっては誇るべきユマニストであった。

 アフガニスタンに残された互いに異なる文化の交錯を眺め、厳しい現実を生き抜きながらも、人々の心の深層に今なお流れつづける文化への確かな信頼を私たちは語りつづけたい。平和というデザインは文化というしなやかな糸を織り込まないかぎり現実のものとはなりえない。

 アフガニスタンの人々には、日本人がもっとも敬愛する国の一つがアフガニスタンであったし、今も変わらずそうであることを知ってほしい。     

 

 *この文章は、2016年に開催された(東京芸術大学アフガニスタン特別企画展)

「バーミヤン大仏天井壁画」~流失文化財とともに~

のために用意された『アフガニスタン流失文化財報告書』に掲載されたものである。